津軽半島は鎌倉期より豪族安東氏が治め、本拠地十三湊は半島・大陸と交易し博多湊と並ぶ湊。室町期、南部下久慈から、36人の武将を率いて種里の地に入った津軽藩始祖大浦光信は鯵ヶ沢町の山間部種里に城を築き、苦闘の末、津軽統一を果たす。種里城跡には光信公が甲冑を着たまま辰巳の方角、岩手県久慈を向いて埋葬される。
〒038-2725 青森県鰺ヶ沢町大字種里町字大柳90
TEL:0173-72-2111(鰺ヶ沢町役場教育課)
半筒形の茶碗は天正年間(1573-1592)後半に流行する。 柔らかいモグサの土を使い、真円でなく、高低がつく茶碗の口縁、少し張りのある胴。胴を載せる台、高台(コウダイ)の裏側は、粘土を貼り付けた無雑作な、シイタケの裏のような表現の椎茸高台。 鉄を含む鉱物を砕き塗り、筆で絵を描き、白いユウヤクをかけて焼く。 白い茶碗に、鮮やかな緋色(ヒイロ)の鉄絵。 温もりと振動のイマジネーション。
南部鉄器は江戸時代慶長年間に始まる。小泉家は藩内で茶の湯釜を製作するために、祖が京都から招来。湯釜の鋳型は惣型を用い、鋳肌は雫石川の良質の川砂と粘土で成形し、地模様は絵押金の箆で施す。鋳上げた釜は木炭で焼き抜き、漆と鉄漿(おはぐろ)を焼付けて着色。湯釜を縮小して口、鉉(つる)をとりつけたのが鉄瓶の始まり。
〒020-0102 岩手県盛岡市上田字松屋敷34
TEL:019-661-2831
司馬が求めた「この国のかたち」には、答えはなかった。しかし日本の見方はとりわけ神道的なものを重視し、これを「真水」とみなす。それは教義などはもっていないで、本居宣長ふうにいえば、日本の神奈備が真水なのである。若返る若水を何度ものめるところ。
司馬遼太郎 文春文庫
Tags : 光信公の館岩手県種里城址鎌倉青森県
Your email address will not be published. Required fields are marked *
Name *
Email *
Website
Comment